HISTORY
2003年
- 誕生〜小学生
- 小学校2年生からゴールキーパーとしてサッカーにのめり込む
中学
- 横浜FマリノスのJr.ユースで活躍
- サッカーと塾で毎日忙しい日々、文武両道を極める。
桐蔭学園
- 全治8ヶ月の大怪我を負う
- 進路選択
アメリカ留学中
- Cañada College
- 2年生ではキャプテンを担当。
現在
- San Fransisco State University (SFSU)
- 様々な困難が待ち構える。
INTERVIEW
プロフィールとユニークな学生時代
Kosukeさんは山口県防府市で生まれ、幼少期を過ごした後、横浜へと移り住みました。小学校2年生からゴールキーパーとして本格的にサッカーを始め、早くもその才能を発揮。中学時代には横浜F・マリノスのJr.ユースに所属し、週5日の練習と週2日の塾を両立するという、まさに文武両道の生活を送っていました。
「練習が終わって帰るのは夜10時前。チームで夕食が出るのがありがたかったですね」と振り返ります。Jr.ユースでは20人のハイレベルな選手たちが集まり、その大半はスカウトで選ばれた猛者ばかり(セレクションから受かった選手はその代で一人のみ)。競争の厳しさを日々感じていました。Kosukeさんはゴールキーパーとしては高くない身長でしたが、抜群のセーブ力でスタメンとしてゴールを守り続けました。
身長を伸ばすため、「相当ご飯は食べましたよ。最後まで残って白米をかき込むのが日課でした」と笑いながら話します。
プロサッカー選手になるということは、Jr.ユース⇨ユース⇨プロとそれぞれとても限られた関門を登らなくてはならない大変な道のりです。Kosukeさんがサッカーの傍ら塾に通っていたのも、Jr.ユースからユースに上がれるかわからないギリギリの状況にいて、上がれなかった場合のセカンドオプションを残しておくためでした。
しかし結局ユース昇格の壁は厚く、スタメンであったにも関わらず、残酷にも身長の高い選手が優先的に選ばれてしまいました。
ただKosukeさんは学業にも秀でていたため、高校は名門・桐蔭学園へ進学。
学業面ではアドバンスコースに所属し、慶應大学進学を目指し、指定校推薦の枠を獲得する目標を立てました。朝はクラス開始より1時間前の7時過ぎに学校に到着し勉強、学校の後は夜7時まで部活動。さらにはそのあと塾に通って勉強を続け、まさにサッカーと勉強の二刀流を貫く日々を過ごしました。努力の成果もあり校内模試では800人中3位を獲得し、1200人規模の学校の中でもKosukeさんはトップクラスの学力を誇っていました。「勉強は日々の習慣化。習慣的に勉強をしていたから、テスト前に必死で詰め込む必要がなかったんです」と、自身の努力の積み重ねを語ります。
高校三年生では、サッカー部として過ごした高校3年間の集大成として全国サッカー高校選手権に臨みます。12月にはリーグ戦の県大会を制し、関東大会にも出場しました。しかし、全国への切符はあと一歩届かず。悔しい気持ちを抱えながら、進路選択をすることになります。
留学を志したきっかけ
Kosukeさんの進路において大きな転機となったのは高校2年の夏。右膝の前十字靭帯断裂という全治8ヶ月の大きな怪我を負ってしまいました。3年間という短い高校の間での8ヶ月は大きな痛手で、復帰後も満足に力を入れることができなくなり、以前のようなパフォーマンスとはかけ離れた状態になってしまいました。ずっとチームの要だったKosukeさんは今やスタメンから外れ、大きな挫折を味わい、サッカーを辞めることも考えました。
「このままじゃ終われない。俺にはまだやり残したことがある。絶対にサッカーを続けるんだ」Kosukeさんは諦めませんでした。自分のサッカー人生を続けるために進路を考え直します。
もともと慶應大学を志しており、成績も優秀で指定校推薦の枠も確実に狙えました。しかし「大学サッカー部の層が厚すぎて1、2年生はほとんど試合に出られないと思った。高校で試合に出られなかった自分としては、スタメンとしてプレーすることが絶対条件だった」ため、進路を考え直しました。
そこで頭に浮かんできたのが、「アメリカサッカー留学」という選択肢でした。
高校1年生の時、とあるスポーツ留学のエージェントがサッカー部向けに開いた講演会を思い出しました。その時は慶應進学を考えていたため、「いや俺は絶対に慶應に行くから。留学なんて興味ないや」と真剣に聞いていませんでした。
しかし「どうしても試合に出たい」という強い思い、高校の先輩たちが既に海外でプレーしていることを聞いていたこともあいまって、留学を真剣に考え始めます。ヨーロッパは勉強との両立が難しいクラブチーム制度だったため、学業とサッカーを両立できるのはアメリカでした。
慶應と留学で揺れる中、最後に選んだのはアメリカ留学でした。
「アメリカで学業とサッカー、どちらも妥協せず挑戦しようと決めました」
エージェント選びも慎重でした。当初はその講演会で出会ったエージェントに話を聞きましたが、最終的には人柄を信頼できた別のエージェントに決めました。
コミュニティカレッジでの挑戦と学び
Kosukeさんが最初に渡米したのは、カリフォルニア州のCañada Collegeでした。エージェントの紹介でカレッジのコーチとつながり、サッカー生活を再度スタートします。
「1日7時間サッカーしていました。楽しかったことは基本的にサッカーだけ。ジムも広くて最高の環境で、自分のやりたいことに全力を注げる毎日でした」と振り返ります。
ただし、順風満帆ではありません。家族や友達と会えないホームシックに苦しんだり、テレビで見ていた華やかなアメリカ像と現実のギャップ(ホームレスの多さや移動の不便さ)にショックを受けることもありました。それでも「サッカーをしている時間が幸せだったから、結局楽しかった」と語ります。
チームメイトはローカルやイギリスからの留学生が中心。最初の練習から全力でアピールし、すぐにコーチや仲間から一目置かれる存在になりました。「遊びはほとんどしませんでした。英語かサッカーかを選ぶなら、迷わずサッカー。常にサッカー優先でした」。2年目にはキャプテンを務め、全試合でスタメン出場を果たしました。
Kosukeさんの練習姿勢は周囲にも影響を与えます。「最初は自分だけが一番早く来て練習していたけれど、気づいたら大勢が僕のように朝早くに来たり、練習後も残って自主練するようになっていました」。コーチからも、「お前がキャプテンになってからチームが変わったんだ。」と言われました。そんなチームの姿を見て、「キャプテンとして役割は果たせたのかな」と思て感動しました。
Kosukeさんのプランは、2年間をCañada Collegeで過ごし、3年次に4年制大学に編入するプラン。スポーツに集中的に取り組む、いわゆる”Athlete”という区分に属する学生は通常の編入とは違い、優れた実績や能力を発揮できれば、Universityから編入のスカウトが届きます。大学スポーツも本気のアメリカでは、時に奨学金までオファーされます。
Kosukeさんは、学業面では「編入が無事にできる最低限GPA 3.0を維持するのが目標」と語ります。それでも結果としてGPA 3.4(/ 4.0)という高成績を獲得。練習と勉強の両立を確実にこなしていきました。
アメリカと日本のサッカーの違い
Kosukeさんはアメリカと日本のサッカーのスタイルの違いを、実体験からこう語ります。
「日本はスピードが速く、ずっと切れ目なくプレーが続く感じです。1から10で表すと常に8くらいで、速い流れで休みなく流れるイメージ。一方アメリカは、4のスピードで流れていると思ったら急に10になって、どかんとプレーが急加速する。身体能力がとても高いプレーヤーが多いから、緩急がとっても激しい。」と語ります。さらに、「日本では戦術はおおまかで、個人のプレイの裁量が大きくて”自分で考えて動け”という感覚が強いけど、アメリカではアメフト文化が根強いからか、戦術を細かく徹底してプレーヤーに伝えて、それ通りに動く感じです。僕もアメリカの自由なイメージと違くて驚きました。あ、あと観客もすごくて、トラッシュトークも飛んできます(笑)。やっぱり皆大学サッカーにとっても熱心なんですよね。D1だと2〜3千人の観客の前でプレーするので、まさにプロ気分を味わえる」とのこと。
SFSUでの挑戦
その後、KosukeさんはSan Francisco State University(SFSU)に編入。
奨学金は年間約100万円。私立大学のメンロー大学などからもより多い奨学金のオファーがありましたが、市立のSFSUは学費がより安く、費用面はトントン。
人数が多い大学に興味があったことから、最終的にSFSUを選びました。
D2という強豪が揃うカリフォルニア州リーグに挑みます。最初は厳しい現実に直面しました。
編入生のKosukeさんとは異なり、ライバルのキーパー達は1年生からチームでプレイしておりすでに信頼を築いていました。
「185cmを超えるキーパーがライバルで、自分は3番手。全然試合に出られなくて、正直きつかった」。 それでも諦めずに練習を重ね、最終的にはスタメンの座を勝ち取りました。
しかし、2024年春、大きな試練が待ち構えていました。SFSUが財政難からスポーツクラブを縮小し、サッカー部が廃止されることになったのです。
「続けたくて他大学のトライアルも受けました。でももう4年生で、期間が短すぎて実現できなかった」と、無念の思いを語ります。
留学を通して変わったこと
アメリカでの4年間を振り返り、Kosukeさんは「自分の弱みと向き合い、強みを活かす考え方を身につけた」と語ります。
日本では「みんな同じようなプレイヤー」が多く、平均的な型に合わせる意識が強かったと言います。しかし、アメリカは個性がバラバラで、身体能力に優れた選手も多い。
「自分の弱点、たとえばセーブ力を克服するために6時間ひたすら練習しました。でも試合になったら、1対1の強さや足元の技術といった自分の強みを出す。『俺が一番のキーパーだ』と思い込んで戦いました」。
アメリカで学んだのは、「できないことはできなくてもいい。その代わり強みを磨いて勝負すればいい」 というマインドセットでした。
「組織あっての自分だし、自分あっての組織。強みを活かして個性を出すことの大切さを学んだ」と、サッカーを超えた価値観の変化を語ります。
今後の進路と夢
現在はSFSUでビジネスを専攻し、授業や就職活動に励んでいます。サッカーはクラブチームで続けながら、次のキャリアへと歩みを進めています。
「将来は日本の企業に就職して、商社や金融で働きたい」とKosukeさん。背景には父親の存在があります。
「父はメガバンクで平日死ぬ気で働いていました。その姿に憧れがあるんです。努力をせずにお金をもらうのは嫌。何か成果を出すために努力して、その報酬を得たい」。
アメリカで「個性を大事にする」という価値観を学びつつも、日本的な「努力で成果をつかむ」姿勢を大切にしているのがKosukeさんらしい部分です。
留学を目指す学生へのメッセージ
最後に、これから留学を考えている日本の学生へのメッセージを伺いました。
「ちゃんと目標を明確にして、その軸をぶらさないこと。」
Kosukeさん自身、常に「Divisionで活躍する」という目標を持ち、そこから逆算して練習を積み重ねてきました。その姿勢が全試合スタメン、キャプテンという結果に結びつきました。
「なあなあになってほしくないんです。留学は新しい環境だからこそ、目標を持って本気でやらないとやっていけない。目標をしっかり持って、自分の個性を活かすこと。それがアメリカで成功する鍵だと思います」。