合格体験記

迷いも不安も超えて
“海外大学”という選択。

アメリカ その他

飛び込む力―五十嵐さん(UC Berkeley/Simplex創業者)

五十嵐さん
五十嵐さん
UC Berkeley

第1部:原点と渡米

病弱だった少年時代

五十嵐さんは、栃木県足利市で育ちました。

「病弱な子どもでした。運動は得意じゃなかったし、勉強もできなかった。」

しかし、そんな五十嵐さんには別の才能がありました。人と人をつなげる力です。

「友達と友達をつなげたりしていました。小さい頃から仲間意識があったんです。自分の持っているところと持っていないところを、小さい頃から理解していました。」

運動ができるのに女の子とは話せない男子がいる。女の子側もコワモテだと思って話しかけない。そういう人たちをつなげる役割を、五十嵐さんは自然と担っていたといいます。

「それぞれのミッシングピースを埋めるのが得意でした。勉強も運動もできなかったから、そのままだとひとりぼっちになってしまう。だからこそ、どうやったら仲間になれるかを考えていました。」

人に話しかけるのを物怖じしない性格。聞き出し上手。それが五十嵐さんの武器でした。筆者は、この「人と人をつなげる力」が、後のビジネスにも活きているのだろうと感じました。

東京への憧れ

当時、将来の夢は特になかったといいます。ただ一つ、はっきりしていたことがありました。

「地元は出たかった。」

母親が東京生まれ東京育ちだったこともあり、定期的に東京へは行っていたそうです。

「華やかな世界に憧れがありました。地元で時間を潰しているより、東京で忙しそうにしている方に惹かれていました。」

高校時代は勉強が嫌いで、バイクを改造したりしていたといいます。原付や400CCのYAMAHA SRに乗っていたそうです。

「機械に乗ったり、機械をいじったりするのが昔から好きでした。マインドをクリアにするのに、機械をいじるのが最適だったんです。」

勉強嫌いでバイクをいじっていた高校生が、後にUC Berkeleyに進学し、ウォール・ストリートで働き、時価総額1000億円の会社を創業することになる。人生は本当にわからないものですね。

18歳で地元を出る決断

18歳の時、五十嵐さんは地元を出ることを決めました。そのきっかけは、父親との会話でした。

「田舎の次男だったから、家督は来ない。家の財産は長男に行くから、次男は好きなことをやってこいと言われました。」

好きなことを探していた五十嵐さんの目に留まったのは、田舎にも2、3件あった珈琲屋さんでした。

「珈琲屋さんでは、みんなが楽しそうにしていたんです。私もこうした場所を提供したいと思いました。」

珈琲屋さんを開くためには、コーヒーの淹れ方などを学ばなければならない。そう考えた五十嵐さんは、東京の珈琲屋さんで働くことにしました。

珈琲屋さんでの出会い

珈琲屋さんで働いていた五十嵐さんは運命的な出会いを果たします。そこの店長は、商社に勤めていた40歳くらいの脱サラした方でした。

「商社時代の取引の話を聞きました。コーヒー豆の価格がどう変わるのか、なぜ値段が上がるのかとか。」

その方から、こう言われたそうです。

「実際にニューヨークの取引所とかを見てこいよ。そういった世界に入るなら英語は必要だろ。英語を話す環境にどっぷり浸かるべきだ。」

当時はまだ勉強が好きではなかった五十嵐さんですが、「とりあえず行ってみよう」という精神で、実際に現地に行くことを決意しました。珈琲屋さんでの何気ない会話が、人生を大きく変えることになるとは。筆者は、出会いの大切さを改めて感じました。

アドミッションに1ヶ月通い続けた

まず向かったのは、UCSB(カリフォルニア大学サンタバーバラ校)のESL(英語プログラム)でした。

「そこでは普段の生活の方が英語を学んでいる感覚がありました。それならコミカレの方がいいんじゃないかと思って、サンタバーバラにあるサンタバーバラシティカレッジを見つけました。小さなコミュニティで、良かったんです。」

しかし、すぐに入学できたわけではありませんでした。

「そこのコミカレのアドミッション(入学事務局)に毎日通って、聴講できるか聞いていました。」

なんと1ヶ月くらい通い続けた結果、ついに聴講を認めてもらえたといいます。毎日アドミッションに通い続けるって、すごい行動力ですよね。普通だったら数回断られたら諦めてしまいそうですが、五十嵐さんは諦めなかった。この「飛び込む力」が、五十嵐さんの人生を切り拓いてきたのだと感じました。

最初は1、2個くらいの授業――英語とCS(コンピュータサイエンス)を聴講しました。

コンピューター黎明期との出会い

1983年、それはビル・ゲイツがMS-BASICを出した時代、コンピューター黎明期でした。

「当時のコンピューターはめちゃくちゃデカかった。そこで円周率を計算しました。」

しかし、五十嵐さんが興味を持ったのは、CSそのものよりも、それを使ったビジネスでした。

「オペレーションリサーチ(数理経済学)に興味がありました。それを勉強するなら、UCSBかBerkeleyかStanfordだと思いました。」

コミカレでALL Aを取った方法

当時もコミュニティカレッジからの編入には、GPAとSATとエッセイが必要でした。手書きで一つのエッセイを書き、自分のいいところやなぜBerkeleyなのかをまとめたそうです。

五十嵐さんのコミュニティカレッジでの成績は、ALL A(オールA)でした。

「英語をあえて一番難しいクラスにして、逆に言語の壁を埋めました。ALL Aは当時は希少でした。」

あえて難しいクラスを選ぶという発想が面白いですよね。普通は楽なクラスを選びたくなるところですが、五十嵐さんは逆の選択をした。それが結果的に英語力を伸ばすことにつながったのだと思います。

普段の会話の英語はルームメイトから学んだといいます。

「お金がなかったから、働いている人のところに住んでいました。言葉遣いとか違っているところを、全部直してと頼んでいました。」

学問的なところでは、各クラスでネイティブの友達を1〜2人、Internationalの友達も1〜2人作ったそうです。

「自分を追い込んでいました。勉強時間は一日中。勉強しながらキャンパスでチューターもやっていました。チューターをすることで、理解度が別次元で上がっていくんです。」

人に教えることで自分の理解も深まる。これは筆者も実感したことがあります。余談ですが、五十嵐さんは子どもの頃から、誰よりも早く寝て、誰よりも早く起きるタイプだったそうです。ショートスリーパーで、4時間くらいの睡眠で十分だったといいます。

カルチャーショックを感じなかった理由

当時の日本と海外の価値観の違いに、どんな印象を持っていたかを聞きました。

「カルチャーショックはあまり感じませんでした。」

その理由を、五十嵐さんはこう説明します。

「小さい時から病弱だったから、喧嘩したり50メートル走を9秒台で走る人たちを異次元に感じていました。このような環境で育ったため、常に何事にも飛び込むような性格だった。異文化に突っ込んでいくことに対しての抵抗感があまりなかったんです。」

これは面白い視点だなと思いました。病弱だったからこそ、周りの「普通の子」たちがすでに異次元の存在だった。だから、海外に行っても「また違う世界に飛び込むだけ」という感覚だったのかもしれません。

第二部に続く。。。

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