横浜からカナダへ、旅の始まり
梅野さんは、神奈川県横浜市で生まれ育ちました。
小学校高学年の夏、初めての海外旅行で訪れたのがカナダでした。その時はまだ「海外ってクールだな」という漠然とした印象しかなかったそうです。まさかそれが人生を変えるきっかけになるとは、この時は思ってもいなかったはずです。
小6の卒業を控えた頃、親から突然「中学はカナダに行かないか?」と提案がありました。知り合いが留学エージェントを経営しており、話を聞いた親が息子にすすめたいと思ったそうです。
普通の小学生なら躊躇するはずです。しかし梅野さんの答えはシンプルでした。
「言語もよくわからなかったけど、とにかくCoolに感じた。周りがやってないことをやりたい。純粋に、"行きたい!"って感じでした。」
この頃からすでに行動力の片鱗が見えていますね(笑)。
こうして梅野さんは、最初は1年だけの短期留学のつもりで、カナダの全寮制私立中学へと旅立ちました。
ロッカーに隠れた最初の1週間
4月にカナダへ渡航した梅野さんを待っていたのは、想像以上の洗礼でした。
学年末まで残り2ヶ月というタイミングでの転入。当時英語はHelloくらいしか話せず、クラスのスケジュールを見ても教室の場所さえわかりません。ホームシックも重なり、最初の1週間はなんと授業にも行かず、寮の部屋に引きこもってしまったそうです。
さらに、先生が見回りに来る足音が聞こえるとロッカーに隠れてやり過ごしていたといいます。
これには筆者も思わず笑ってしまいました(笑)。
そんな梅野さんを救ったのが、友達の存在でした。
「友達が手を引いて教室に連れていってくれた。留学生はほとんどいないし、英語が全く話せないのは自分だけ。あの時の救いは本当に大きかった。」
6月に学校が終わると、サマーキャンプに参加し、できる限り英語を使う環境に身を置きました。

バスケが共通言語になった
そんな梅野さんにとって、バスケットボールが最初の"共通言語"になりました。うまくプレーできると、自然と輪ができる。言葉が通じなくても、スポーツはつないでくれるのです。
しかし、友達ができ始めた1年が終わる頃、英語力の問題で同じ学年をもう1回やることになってしまいました。仲良くなった友達は皆、上の学年へ。
「ここで火がついた。クラスメイトになめられないように、英語を猛烈にやった。」
みんなが通常の英語授業を受けている時間、梅野さんには専属チューターがつきました。その甲斐あって英語力は一気に伸び、1年でリスニングが格段に向上。周囲の会話が理解できるようになっていきました。
だんだん面白くなってきた。でも、自分の言葉で伝えるのはまだ難しい。それが次のモチベーションになっていきました。

「もう一年いさせてくれ」
中学2年生の時、梅野さんは両親にこうお願いしました。
「もう一年いさせてくれ。」
英語が上達していくのが純粋に楽しかった。それに加えて、思春期ならではの動機もあったそうです。
「あなたが好きって、英語でちゃんと伝えたいとかもあった(笑)。」
英語を喋れるようになりたい動機は、人それぞれです。
両親はごく普通の会社員で、金銭面の不安はありました。だからこそ梅野さんは「留学させて良かった」と思ってもらいたいという気持ちから、真っ直ぐに勉強に向き合いました。
当時の学校では、掲示板には平均80%以上の成績者の名前が貼り出されるシステムで、消灯後はランドリールームに移動して勉強を続けたそうです。その努力の甲斐あって、ほぼ毎回成績優秀者としてそこに名前が載るようになりました。
また、勉学だけでなく、サッカー、バレーボール、ブラスバンドなど興味があるものには何でも挑戦。寮のフロアリーダーも務め、普段関わらない人たちとも交わる機会を積極的に作っていきました。
「普段関わらない人たちとも交わる場面が増えて、世界が広がった。」

名門 Queen's University(クイーンズ大学)へ
成績が良かった梅野さんには、複数の大学の選択肢がありました。
スポーツが大好きだったこともあり、キネシオロジーなどスポーツ系の学部を中心に、Queen's(クイーンズ)、トロント、UBCを候補として受験。ほぼ全ての大学に合格したそうです。
その中でQueen'sを選んだ理由は2つ。高校で尊敬していた数学の先生がQueen's出身だったこと、そしてダブルメジャーで4年間に2つの専攻を学べることでした。

最高の大学ライフ -Play Hard-
梅野さんが通っていた高校は、交際禁止、制服着用、男女が座る時は肩が10cm以上離れなければならないという、とにかく規律の厳しい全寮制のキリスト教校でした。
そのため大学に入ると、反動で金髪+パーマに。大きな解放感の中、キャンパスライフが始まりました。
梅野さんが入った学部は1学年たったの100人、しかも女性90人に対して男性はわずか10人。その10人のうち5人寮生活が始まりました。インド系カナダ人、黒人、白人と多様なバックグラウンドの仲間たちと、ジムで筋トレし、大量に食べ、金曜にはパーティーへ。
「全部ひっくるめて最高に楽しかった。」
梅野さんは笑顔でそう振り返ります。

Play Hardの代償 ― 必修科目を落第
しかし、楽しい日々の中で壁にぶつかります。
周りのネイティブの学生たちはパーティーに行ってほとんど遊んでいるのに、それでも良い成績をとっていました。一方で梅野さんは遊びすぎてしまい、必修の授業を落としてしまったのです。
「自分はPlay Hardに偏りすぎて、勉強に全然ついていけなかった。カナダ人は英語ネイティブだし、そもそもQueen'sに来る学生は頭が良くてあまり勉強しなくてもできた。でも僕は、遊びすぎて必修の授業を落としてしまった。」
また、1年目で中退してしまう同級生を目の当たりにして、焦りも感じていたそうです。
そこで夏は日本に帰らずキャンパスに残り、必死に勉強して必修単位を取り戻しました。カナダの大学は"入るのは簡単、卒業が難しい"という現実を、身をもって体感した瞬間でした。
好奇心に従って生きた2〜3年目
その後は生活を立て直し、パーティーは金曜だけに"節制"。大学2〜3年目は就職のことは一切考えず、栄養学など面白そうな科目を取りまくったそうです。
「就職のことは何も考えず、面白そうな科目を取りまくった。」
アルバイトはパーソナルトレーナーをこなし、大学のバスケチームの練習相手も務めました。"Follow Your Passion"という姿勢が、梅野さんの大学生活全体に大きく影響していました。

卒業後日本へ、新たな旅の始まり
4年生になっても就活は特に考えず、何となく「カナダかな」と思っていた梅野さん。しかし日本を10年離れていたこともあり、一旦帰国することにしました。
すると気持ちは変わって、「やっぱり日本にいたい。家族のそばにいたい」という思いが強くなったそうです。
当時付き合っていたカナダ人の彼女も「一緒に行きたい」と言い、彼女は長野の英会話スクールで就労ビザを取得。二人で長野へと向かいました。
そこで梅野さんが参加したのは、"プロバスケットボールチームを作ろう"という団体でした。しかし連絡して訪ねると、そこは廃れた掘っ立て小屋。ショックを受けたものの、次第に順応し、大人たちと半年ほど議論しながら全力を尽くしたそうです。
それでも心の底に引っかかるものがありました。
「カナダで教育にお金をかけてもらったのに、今の自分は何をしているんだ?」
その思いがきっかけとなり、梅野さんは新しい道を模索し始めます。ハローワークに行き、医療系の仕事に就くことになりましたが、最初の会社はとてもブラックな労働環境でした。
朝9時から夜21時まで、月曜から土曜まで身を粉にして働く日々。社長は毎月のミーティングで社員に暴言を吐くような人でした。
それでも梅野さんは新卒ながら営業トップを獲得します。
しかし、営業トップになってもインセンティブはゼロ。初めての社会人経験でその環境を当たり前だと思っていたものの、徐々にその異常さに気づき、「やばい、辞めよう」と決断。
「東京へ行こう!」と就活を開始し、東京へと引っ越していきました。
後編につづく...
